2024/03/14
最近、時のたつのがとても速く感じる。院長・理事長を息子に譲ったのが2021年3月末だったが来年の春には3年が経過したことになる。細谷家総勢14名で初もうでをしたかと思えばもうすぐクリスマスがやってくる。このように月日が早く感じるのはいろんな説があるが一つには身体の代謝なのだという。低下すると体感時間がゆっくりと進む。その結果、現実の時計においていかれてしまうらしい。
ついこの前に、我が家の庭のエゴノキやドングリの木、ケヤキの木からアブラゼミのジージーというやかましい鳴き声が炎天下に聞こえていた。セミの鳴き声を聞いていると私はあることを思い出す。大学時代に三原市にある名刹仏通寺で座禅を体験しているときにアブラゼミのけたたましい鳴き声が聞こえてきた。この時に私は哀愁を感じてしまった。そのアブラゼミの鳴き声がツクツクボウシの鳴き声に代わるころに約2年半生活を共にした末娘親子が神戸に引っ越した。その娘の家に行くのに新幹線と地下鉄、阪急電車を乗り継いで御影駅に着いた。すでにあたりは暗くなっており夜寒の小道をとぼとぼと歩いているとある想念が浮かんできた。それは次のようなものだった。
人生はよく川のようなものだと言われる。上流から海に流れ着くまで停滞や急流があり長い人生を振り返り老人は自分のことをある時はじっと我慢し、ある時は風に流され自由に生きる。美空ひばりが歌っていた「川の流れのように」の歌詞を思い出してみると「ああ川の流れのように おだやかにこの身をまかせていたい ああ川の流れのように 移り行く季節雪どけを待ちながら ああ川の流れのように おだやかにこの身をまかせたい ああ川の流れのように いつまでも青いせせらぎを聞きながら」来年で75歳になる私はこの歌のように身をまかせることが本当に自分にとってこれでよいのかと疑問を感じるようになった。そして、漸進的な人生をこれから送ることは果たして良いことなのか。たった一度の人生ならば突然変異を起こしてもそれはそれで面白いのではないかと自問自答した。
つまり、老人だから慎ましく献身的でしかも善意と誠意を持って家族や知人に接して死後には、とても優しくて素晴らしいおじいさんだった言ってもらいたいのか。が、我々団塊の世代の老人はこんな優等生的な人生を送る必要はない。もっと身勝手で礼儀知らずのわがままな人生を送るべきだ。仮面をかぶった笑顔など断じて必要ではない。これからは豪放磊落な生活を楽しもう。こんな事を頭の中でくるくると思いを巡らしているとすぐ横の高架を阪急電車三宮行き普通電車が満員の乗客を乗せて通過した。この時、私は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のカムパネルラの乗っている銀河のことを思い出していた。
マンションのドアフォンを鳴らすと孫が「じじ、お帰り」と明るい声で出迎えてくれた。部屋に入るとテレビがついていてニュース番組が始まっていた。偶然にも私の好きな作家の伊集院静さんが73歳で肝内胆管癌により亡くなったことを報道していた。最後の無頼派の異名を持つ彼は自由気ままに生き、最後まで自分の生き方を貫いた。私もこうありたいと独りごちた。その横で、孫二人が仲よく遊んでいる。