2018/10/04
9月の月末の日曜日。朝から台風24号の影響で雨が降っている。本当なら、今日は京都の研究会に出席しているはずだった。天気が良ければ研究会の後、久しぶりに大覚寺に行ってみようと計画していた。それもかなわず書斎からぼんやりと庭を眺めている。欅の枝が風で強くて揺れて、芝生の上には飛ばされた枯れ葉が散らばっている。次に本棚に目をやると以前読んだ渡辺淳一の「秘すれば花」に目が留まりもう一度読み返してみた。帯に「若さ、盛り、老いをいかに生きるか?能の奥儀『風姿花伝』に学ぶ、現代人の生き方。さらに、序文に、『風姿花伝』は、能楽を大成した世阿弥の作ではあるが、その内容は父観阿弥がその子世阿弥にその都度教え、諭したものを、ひと続きの文章にまとめたものである。中略、以前から私はこの書を人生の指針として愛読してきたが、さらに多くの人々に読んでもらえたらと思い、その内容を現代に引き付けて考えてみた。と書いてあった。
読み返してみて、やはり一番心に残る箇所は以下の言葉である。「さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分(じぶん)の花なり」意味は、時分とは字の通り、ころあい、好機という意味で、「この花(美しさ)は本当の芸の力から出たものでなく、たんなる一時の花に過ぎないものである」と。さらに作者は続ける。いずれにせよ、時分の花はやがて失せる。真の花はその者が生来持っている才能に加え努力によって生み出される絶対的な能力、と結んでいる。これからは私の思っていることだが、親からもらった才能などはほんの一時的なもので、その後の努力で勝ち取ったものこそ本当の花、つまり、「真の花」とおもう。
外の景色に見とれていると、末娘が孫を手渡して「父さん、少しは子守をして」と言って立ち去った。