2022/07/04
6月中旬の日曜日。ちょっとした買い物をするためある商業施設に出かけた。買い物が終わって出口に向かうと、小雨が降っていた。そぼ降る雨の中、背中を丸めて私の車を目指して小走りに駐車場を走り抜けた。車に乗り込むと「やれやれとんだ雨だ」と独りごちた。県道を走っていると、雨足は強くなり、ワイパーが全速力で動いている。夏が近づくとこのような通り雨、すなわち驟雨の発生が多くなってくる。私は驟雨に出会うとなぜかある友人の死を思い出す。
親友のTは私がサラリーマン時代に知り合った友達であった。彼とはすぐに仲良しになり、仕事が終わると二人で難波や梅田あるいは彼の住居に近い三宮でよく飲んだものだ。私には生まれたばかりの長男がいたが彼は独身だった。今でも明確に覚えているが、三宮の阪急電車の高架下にあった餃子専門店の「ひょうたん」で飲んでいる時のことだ。唐突に私は次のように言葉を紡いだ。「高校時代に医者になろうと思っていたが色々あって化学の道を選択したが今になってもう一度医者になりたいと思いが日に日に強くなっている。家内は賛成してくれた。正直なところお前はどう思うか」彼は餃子を口に頬張りハイボールを飲み干しながら「お前なら良い医者になれる。患者に寄り添う医者になってくれ」と答えてくれた。
時は流れ、私が医学部5年の初夏にTが我が家を訪ねて来てくれたことがある。この時には長男長女と身重の妻との4人暮らしをしていた。カレーライスとスパサラダを用意してTを囲んで楽しい夕食を食べたように思う。食事の途中で何を思ったか「細谷、これだけ家族がいるのだから自分の体には気をつけろよ。それから、万一に備えて生命保険には加入しておくように。」この言葉が最後になろうとは思いもよらなかった。
開業して2年目の梅雨の時期、Tが自宅近くの川に落ちて事故死したという連絡が入り、私は新幹線で葬儀に参列すべく新神戸に向かった。友人の車に乗り込むと雨が落ちてきた。葬式に参列している間中降っていた雨も彼の事故現場に着くと悲しみの驟雨も上がっていた。川床に花束が見えたのでその方向を向いて手を合わせた。北の方向を見上げると六甲山の上空に雨上がりで抜けるように青い空の真ん中に白い雲が浮かんでいる。その雲を眺めているとTが嬉しい時に見せた表情、細い目、四角い顔、両方の口角が少し上がった口唇に思えた。
近頃は年を取ったせいか早く目覚めるようになった。庭に出て池の傍に行くとメダカたちが足元に集まってくる。そのメダカたちを見ているとある想念が浮かんできた。人間は病気や事故で死ぬのではなくて、寿命や運命によって死ぬのだろうと私は思う。医師としてこれまでたくさんの患者さんの死を見ていてもそう思うことが多々あるのも事実だ。この頃、「天命」と言う言葉に対峙することがある。天とは天地自然万物の存在に貫くエネルギーでそれにより生かされていることを「天命を知る」ということになる。寿命・運命がどこか受け身の感覚であることに対し、天命は自ら肯定して信じることと言えるだろう。